なぜ日本人は漢文を学ぶのか

1、はじめに

 先日先輩と話していて、漢文の魅力を熱弁した結果「なぜ漢文を学ぶ必要があるか」という質問をされたが、立ち話程度の状況だったのであまりしっかりと話せなかった。しかし私自身も確り掘り下げて考えたこともなかったので、ここで私の考えを詳らかにしようと思う。

 

2、なぜ古典を学ぶ必要があるのか

(1)内容を学ぶ意味そもそもここから問題にしたい。早くは小学校から我々は古典を学んでいるが、なぜこれを学ぶ必要があるのか。その大きな要因は「教養」にあるだろう。

 例えば、かつてTwitterで「夜は揚げ物」というのが清少納言のパロディとしてバズったことがある。これなども「春はあけぼの」を知らない人間からするとただ夕食を伝えただけであるとしか思えないであろう。ここで笑うためには教養が必要なのである。

 また、先日バーベキュー中に「パリは燃えているか」のノリで「木炭は燃えているか」と言って友と笑い合ったものである。これなどもその場にいた大半の人は分からなかった(もしくはしょうもなさすぎて気にも留めなかった可能性はある)わけで、知っていなければ笑えないのである。

 直接役立たないからいらない、というのではなく、教養においては知っていることそのものに意味があり、価値があるのである。(教養がない人間は、革新左派野党を新撰組と名付けるという奇妙な事態を生ぜしめる。)

(2)原語で学ぶ意味

 では、それを敢えて古語で学ぶ必要があるのか。今も使われている原語(英語やフランス語)であれば現地人と交流するのに役立つが、古典のネイティブなどもうとっくに死に絶えているではないか。こういう意見もあるに相違ない。

 まず一つの理由として、概ね原語であれば表記に揺らぎがないことが挙げられる。印刷ではなく筆記で伝えられたものであるので文言の多少の揺らぎはあろうものの、やはり訳すと訳者によって表記が変わる。卑近な例を取ろう。シェイクスピアハムレットの一節「To be or not to be」も訳が様々で、「生きるべきか死ぬべきか」や「このままでいいのかいけないのか」「生か死か」「生きてとどまるか、消えてなくなるか」など様々な訳がある。これはまだハムレットが劇であるから語呂の面での定訳らしきものもあろうが、古典ともなればそれどころではない。やはり人に伝える、わかってもらうためには原語で述べるのが一番容易なのである。

 そしてもう一つの理由は、原語の含みが翻訳で消え去ることがあるということである。先述のシェイクスピアの例でも、もし本当に直接的に「生か死か」というのが言いたいだけならばシェイクスピアも「To live or to die」と書くはずである。しかし彼はそう書かなかったところを重視すべきであろう。「生と死」以上のものを含ませたと考えるべきで、それを考えるためには原典に当たらねば解釈ができないのである。漢字で例をだすと一言に「変わった人」という訳でも、原典において「奇人」と「異人」では意味が違うのである。

3、漢文を学ぶ意味

 ここまでで古典を学ぶ意味を明らかにしたところで、今度は漢文を学ぶ意味を示していく。

(1)朝廷の公的文書だった歴史

 古文は日本語の原型であるから学ぶべきだと雖も、漢文は中国語であるのだから学ぶ必要がないと言う人がいる。しかし、およそ明治維新まで日本の公文書は漢文であった。これは中国に影響を受けたという歴史的背景が大きい。明治維新以降は仮名混じり文にもなったが、古い法律などは未だに書き下し文のような文型になっていたりする。日本の文語上の公用語だったという地位を鑑みるに、口語上の公用語であった古文と同等の立ち位置だったともいえよう。

(2)日本人の精神性

 新渡戸稲造は、『武士道』にて日本人の精神や道徳・倫理は武士道由来であり武士道自体は儒教・仏教・神道に由来すると述べている。このうち儒教と仏教は中国から伝来したものであるから日本人が最初にこれらに触れた時は漢文で書かれてあったはずだし、今でもこれらは漢字で書いてある。さらに、日本においてもこれらの漢籍の独自解釈がすすみ、深化してきた背景がある。つまり、日本人の道徳について考えるにおいて漢文とは切っても切れない関係にあるのだ。

4、まとめと雑感

 漢文は日本人と深い関わりがあり、日本人の精神の根幹に関わるものである。また、日本人は漢字に訓読みを付すことで漢字を日本語に取り込んできた。漢字の文化圏において、このようなことをしたのは日本のみである。同様に、日本人は漢文も読点などをつけることで日本語化し、取り込んできたのである。漢字が日本語であることに疑いがないように、漢文は古代中国語ではなく古代日本語であるのだ。