玄人好み。宮城谷昌光の『三国志』

 宮城谷先生の『三国志』、読み終わりました。全12巻。

 率直に言うと、タイトルの通り玄人好みである。裏返せば、素人向けではないということ。明らかに。また、細かい種々の部分に関する感想は書くと長すぎるので割愛させていただく。もしかしたら別個に述べる機会があるかもしれない。

 

 感想に移る前に軽く三国志の説明。皆様が思い描く三国志とは、通常『三国志演義』(以下『演義』、これを基にした小説・漫画等も含めてこう呼ぶこととする)を指しており、これは羅貫中が明の頃に書いた”物語小説”が発端である。後漢王朝末期から三国時代にかけて実際に起きたことを陳寿が『三国志』という歴史書にしており、羅貫中がそれを脚色して『演義』を構成した。その過程で貂蝉の連環の計があったり諸葛亮孔明赤壁の戦いで風を呼んだりという逸話が追加されている。

 

 宮城谷先生の『三国志』(以下、本書)は『三国志』の方が中心になっており、『演義』の逸話はおおむねカットされている。これはこれで”新しい”三国志であり、歴史の実情に近いということで、個人的にはまずそこが面白かった。

 

 本書は、後漢王朝が危機に瀕する108年(先生はあとがきでそう語っている)から280年まで173年間を描いている。ほとんどの『演義』は184年からはじまり諸葛亮の死ぬ234年までに注力するので、それ以外の範囲の部分は『演義』を読破した人でも大半は知らないないし気にかけない。そういう点でも”新しい”三国志であった。

 

 本書はそのような漠々たる歴史丸ごとを描くのだが、要所要所に出てくるのは「四知」という言葉である。本書を読む予定はないが当サイトだけ読む人にも覚えて帰ってもらいたい言葉で、楊震という後漢の名臣の言葉である。彼は「ここには私と貴方しかいませんよ」と賄賂をねだる佞臣に対し、「天知る、地知る、我知る、汝知る」と言い放つ。自分と貴方しか知らないわけがなく、天と地が知っている、と。四つの知、ということだ。楊震が言い、曹操が言い、司馬昭が言う。”我”と”汝”しか知らないはずだった言葉が天地を伝って楊震が死んだ後の時の権力者たちの行動指針にもなる。これこそが”歴史”なのであり、この言葉こそが本書の173年間を貫いて輝かせる光なのである。

 

 様々な歴史上の人物が現れ、彼らの遍歴も詳しく書かれている。また、彼らの行動に対して先生なりの評価・批判もあって、そこも興味深い。遍くすべての勢力について気を配りながら描かれていたので、その評価・批判も公平であると感じた。結果論としては不備の有った態度・行動も多面的に描かれることで『演義』に慣れ親しんだ私でも「まあ仕方ないか」と考えさせられることも多々あった。劉禅などはまさにその例である。詳しくは本書をお読みください。

 

 

 ここまで書いておいて、玄人好みと書いた意味を説明しよう。

 人とその遍歴が多すぎるのである。今まで『演義』にさえ触れたことのない初心者が読むと正直困惑しそうである。『演義』のように劉備曹操孫権周りのみに重点があるわけでもなく遍く全勢力全時代に均等に気を配られている。その結果の情報過多がつらいかもしれない。『演義』を読んで漫画やゲームなどで武将の姿かたちが脳内に描けるくらいでないと正直しんどいかもしれない。先生の著書を9割方読んだ私からすると、先生の単一主人公の物語(『管仲』や『沙中の回廊』など)でさえも登場人物と情報が多い。それは先生の著書の群像学的美質でもあるのだが、ただでさえ登場人物が多い三国志なので、読むことのしんどさを作り出すかもしれないとも感じた。まあ、「歴史に軽重なし」と言ったところで、先生からすると『演義』の主役の人であろうとなかろうと、『演義』のメインの時代であろうとなかろうと、歴史は歴史なのだろう。

 

 あと、本書を読んだ蜀(や劉備)・呉(や孫権)の熱烈なファンはおそらくショックを受けると思われる。これは別に本書の欠点でもなく歴史的事実が詳らかになっただけだから仕方ないことなのだが。劉備の特異性は勿論あるわけだが彼が別に仁徳者であったわけではないという描かれ方をしていたり、諸葛亮も別に軍事が上手くなかったり、孫権も別に英雄的でもなくむしろ陰湿な人間性が垣間見えたり、それぞれの人間模様が一概に英雄的ではなかったという描かれ方をしている。それが歴史の真相に近く、彼らが英雄ではなく一個の人間であったというのもまた本書の美しさを醸し出しているが、「三國無双」などから入った熱烈な蜀・呉ファンは若干読むのを待った方がいいかもしれない。熱がある程度冷めて俯瞰的に見えるようになってから読む方が味わい深くなると思われる。現に私も6年前の熱が冷めて冷静に読めるようになった類の人間である。

 なお、魏・晋の熱烈なファンは読んでもさほどショックはないと思われる。魏と晋に関しては、あまり欠点は描かれていない印象を受けた。結局、20年で天下の半分を手中に収めた曹操と100年ぶりの中華統一を成し遂げた晋及び司馬一族は蜀・呉より秀でていた、というのが歴史の評価なのかもしれない。

 

 

 

 最後に。

 先生の本の大半を読んできたが、ここまで長大な一個の物語はおそらく他にはあるまい。勝者もまた敗者となり、縄が糾われるかのように歴史が紡がれる様を感じた。三国志ファンになって長い玄人の皆様なら読んで絶対に楽しい本でした。

 

 

 

 

P.S.

宣伝みたいだけど違います。三国志初心者の方はこのシリーズがおすすめです。漫画だし、5巻だし、キャラの顔が細かくかき分けられてて覚えやすい。登場人物の大仰な動作が簡潔かつ明快に感情を伝え、短い場面ながらも感動できるシーンが多い。